自立は理念です。現実に到達されることはないものです。
人はそれぞれの人生をどこへ向かって進めて行こうとしているのでしょうか。動物は目先のことに,欲求に従って行動しているように見えます。人間は動物の中でも特別な存在のようで,目先のことに欲求にだけ従って生きていけばよいというわけには,到底いきません。できれば自分らしく,充実した日々を送りたいと誰もが思うでしょう。人間の場合,生きる指針は,本能として身体に刻印されたものとしてあるようには思われません。では指針はどこに,どういう形であるのでしょう?
子供には躾けや教育が必要です。大人になって自分一人の力で生きていけるように,大人たちが人生の先輩として,必要と考える知識や,人との関わりの大切さを身をもって教えます。それらは欠かすことのできない重要なことですが,彼ら大人たちの誰もが,人生そのものの指針を伝授することはできません。
では,自立の理念とは何でしょうか?
依存からの完全な脱却であるというのは,どうでしょうか。同語反復のきらいがありますが,間違いではなさそうです。言葉を換えれば,自立とは,自己がそれ自体で自足することであり,あらゆる関係性から自由になるということであるといえるようです。
それでは依存とは何でしょうか。
それぞれの自己は,何ものかとの関係において存在しています。何ものかとの関係においてしか存在し得ないという方が,より適切です。
私がこの一文を書いているということに即して具体的にいえば,持っているペン,紙,向かっている机,椅子,暖房機,電気スタンド,書斎,家,家族,近隣の住人,家々,街,道路,などなど無数の物や人が,つぎつぎに私の意識的視界に入ってきます。それらのすべてが私との関係において存在し,私の世界を構成しています。それらは私の所有に属しているともいえます。それらのものは,私との関係において主観的,かつ客観的という性格を持っています。従って,たとえばAさんの世界に属するそれらのものと,わたしのものは,主観的というかぎりでまったく別個のものですし,客観的というかぎりで同一のものです。我々は互いになにものかを共有することができますし,しかし,なおかつ共有することができません。
私がいま使っているペンは,しかじかという会社の製品で,しかじかという名前の物であり,どこの文具店でも手に入るありふれた物です。Aさんもおなじ物を持っているとします。Aさんのも私のもおなじ物といえますが,しかし,まったく別の物ともいえます。つまり,私が持っているそのペンは,「私のペン」であり,「Aさんのペン」とはまったく異なります。仮にその関係性を無視して,私がAさんのペンを勝手に使えば,私は泥棒ということになります。このように,私はそのペンとの関係性の中にあり,私がそのペンに依存することにより,それは私に固有のものとなるのです。
私がそのペンを使ってみて,書き心地がいいから試してみてとAさんに勧めたとします。Aさんがそれに応じて試し書きをしたとすると,そのペンは共有されたことになります。Aさんも同感しておなじ物を買ったとすれば,ますます共有性を深めたことになります。あるとき何かのきっかけにAさんが私に対して著しく気分を害することがあれば,そのペンを捨てるかもしれません。Aさんがペンを買ったときと捨てたときとでは,おなじペンが対立する意味を持つものとなります。
このように見ていくと,私はおびただしい物や人との依存関係の上に生きているのが分かります。私はそれらによって人生を支えられており,それらが必要であるかぎり,どれ一つとして欠けてはならないものです。
また,不要の物はゴミとして捨てることになりますが,不要でありながら私が捨て切れないでいるものたちもあります。それらの物との関係においても,私の性格的特性が表われているのです。
隣の芝生がきれいに見えるという諺があります。
人をうらやむ心は誰にでもあるものでしょうが,度が過ぎると心を制御するのに苦しむことになります。自分が所有するものは,それを大切にする心がなければ,依存している当の物や人によって,ある意味で逆襲されることになります。
隣の芝生がきれいに見える精神は,満たされていない精神です。
私が貧乏であり,隣の家が裕福であるとしても,私の心が満たされていれば,羨ましく感じることはあって妬むことはないでしょう。しかし心が満たされていなければ妬むかもしれません。
私の心がある程度満たされているとすれば,私に本来与えられている自然的な精神の諸力が,過不足なく実践できている場合です。そのとき,それなりに他人の評価がもらえていることも,必要条件になるでしょう。
逆に心が満たされない思いをしているときは,本来自分が持っているはずの潜在的能力が実践されていないときです。
つまりは心が自然的であればおおよそ問題はないのです。そして人の心が自然的に成長するのが難しいのは,人間が他者との関係を必須のものとしているからです。
結論的にいえば,本来持っているはずの潜在的諸力を実践できないのは,自我の不始末ということになります。結論だけをいえば自業自得ということになるのですが,自我自身がその自然的な機能を他者によって歪められるので,ことは単純ではありません。自我の未発達は,悪しき依存関係の一側面です。それは何よりも,原初の他者であり,人格形成の根幹に関わる立場にある母親との関係において生じます。
心を病んでいるということは,自我の機能的能力が衰退しつつあるということです。人は自我に拠る存在です。自我は光の世界のものです。人は自我を持つことによって人となったのですが,自我によって光を知ることになったのです。そして光を知ったがために闇をも知ることになったのです。光は生きようとする世界のものであり,闇はその裏面の世界です。そして闇は,死に通じるものです。光は闇を前提とし,生きるということは死を前提とするのです。光と闇,生と死は,人間が自我を持つ存在であることで必然化された,人間ならではの遠大な矛盾です。
赤ん坊のか細い自我は,それを護るものがなければなりません。光を知る者として生を受けた赤ん坊は,必然的に闇に怯えるものでもあります。自我の機能を駆使して自らを生きる力を獲得できるまでは,他者の保護を絶対のものとする理由があります。
自我に拠る存在ということが,必然的に闇の世界の存在を前提としているというところに,人が依存的な存在であることの一義的な意味があります。
絶対的な保護を必要とする赤ん坊の未熟な自我が,しだいに力をつけて闇の世界のエネルギーを活用していくことになりますが,それに伴って絶対的な依存から自立の方向に向かうものの,闇の世界を凌駕することが結局は不可能なのも自我の一面です。従って,自立は単なる理念にとどまるのです。
そのようなわけで,人は人生の最早期に他者への依存を不可欠なものとし,結局,他者との依存関係を脱することはできません。
自我は強力な能力を与えられていますが,闇の力の前には何ほどのものでもありません。闇には意識を無化する力があります。それは場合によっては自我を滅ぼすことになるものです。ですから自我を共有する他者との関係は,なにを置いても重要な意味があります。しかし,それだけに他者は諸刃の剣です。自分を元気づけてくれる最たるものであるということは,逆に当てが外れるとひどい目に合うことにならざるを得ません。
小児のころ緘黙症(かんもくしょう、家では普通にしゃべれるが、学校などの特定の場面では全ったくしゃべれなくなる現象)であったある女性は,テレビなどのニュースで人が死んでもなんとも感じないが,犬や猫が死んだらとても悲しいといっています。頼りとする人間たちに,いかに傷つけられてきたかが察せられます。
犬や猫は自然のものです。犬にかまれても,犬を憎んだり,恨んだりする人は滅多にないでしょう。ふつうは飼い主に抗議するだろうと思います。犬は人の身体を傷つける力を持っていますが,心を傷つけることはありません。心を傷つけるのは人間ばかりです。心の傷は外部からの力によるのではなく,受け止める側の内部的な問題として生じるのです。このことは他者が,外なる存在者の中で,特別な意味を持っていることを示しています。つまり自己という存在は,構造として他者を内に含んでいるのです。それがいかなる外部的な状況に置いても,他者との関係が途絶えることがない理由です。犬は経験的に,学習としてそれぞれの個人の世界に外部から入ってきたものですが,他者は,経験以前のものとして存在しているのです。人と人とのあいだでは,言葉を交わさなくても相通じるものがありますが,犬の気持を察するには,人間的な類推をするしかありません。
それにしても他人に心の傷を負わせる人は,人の心の自然の性としてそうした行為におよぶのではありません。その人自身がかつて他人たちから傷を負わされ,いわば心の自然を撹乱されたために,怒り,憎しみが無意識のレベルに解消されずに残っているからです。
他者は,自我を共有するものとして最も頼りとするべきものであるだけに,最も傷つけられるものでもあります。人間の最大の敵である可能性を,人間は持っているといっても過言ではありません。それは人間の存在構造から,原理的にいえることなのです。
自己の存在条件として,他者の助けを絶対的に必要としているのが人間であるということは,親といえども赤ん坊を十分に守り育てる力を持っている保証がないということでもあります。つまり親にしても他に助けを求めたい心があっても,おかしくないどころではないのです。その相手が年端もゆかない赤ん坊であっても不思議はありません。むしろ心にわだかまりを抱える母親には,恰好の相手になります。動物に似て自然のものである赤ん坊は,どんな母親にとっても愛らしいかぎりではないでしょうか。滅多には味わえないであろう愛らしいものとのあいだでの至福の感情は,程度の差こそあれ,あらゆる母親がいつまでも封印しておきたいほどのものではないでしょうか。母親によっては,あの手この手と意識的,無意識的な策を弄し,自分の思うように育てようとするかもしれません。自分の望ましいイメージに沿って育児に励むとき,それが愛情と信じやすい心的状況ができるだろうと思います。ときによっては,投網にかける漁師のように我が子をからめとろうとする母親も,珍しくはありません。いずれにせよ,最良の母親も含めて,母親が赤ん坊に悪しき依存をしてしまう側面があるのは,避けられないことです。
そのような事情が,赤ん坊の自我を混乱させ,自然的な機能を守り通すのが困難になる主要な理由です。母親が第一番の頼りであるということは,母親によって人生を狂わされる最大の理由になり得るということでもあります。
ある中年女性は,離婚の経験者です。小学生の長女と暮らしています。年の暮れに,再婚している元夫から連絡があり,正月に長女を預かるといわれました。相談ではなく,要求であったのも神経を逆なでされることでしたが,長女が喜んで父親のもとへ去ったあとの寂しさは,言葉ではつくせないほどのものでした。そして元気で帰ってきた娘に,「おかあさん,淋ししかった?」と訊かれて,大丈夫だったから安心してね,とはいえませんでした。幼い娘に,母親自身が幼い子のように寄り添って,いつまでも離れたくないと思っていました。娘は母親を気遣って,あれこれと世話を焼いてくれるのです。親子の関係はまったく逆転していたそうです。
繰り返しになりますが,人間は依存的な存在であり,その依存の原初の関係は,母親とのあいだで体験されると考えて間違いないと思います。原初の他者である母親への絶対依存からしだいに自立していくことになりますが,それにはまずは母親の助けが必要です。そのためには母親が,それなりに自立していなければなりません。しかしながら先にも述べたように,母親の自立性には個々に問題があるのです。赤ん坊が頼りとするに値するかは疑問であるほど母性を欠く母親が少なくないのが,現在の臨床現場からうかがえる現実です。子供の虐待報道さえ日常的というのが,昨今の状況です。まして子育てに悩み,自信を失くしている母親は無数にあると考えなければなりません。そこには時代の反映という側面もあると思います。
価値観が多様化している現代ですが,どうやら母親たちにとって,母性も多様化しているかのようです。
それは心の豊かさの表れでしょうか?価値観の多様化が,それぞれの自由の発露に基づいているのであれば,そこには精神の豊かさがあって然るべきです。そして,豊かさのしわよせとして,母性が希薄になるという事態はあり得ることでしょうか?私には,とてもそういうふうには考えられません。母親が個々の価値観に基づいて行動するのは個人の自由でしょうが,それが母性の希薄さを弁明することになるとは到底考えられません。そういうことは個人の問題だと思う人もあるかもしれません。しかし,それは間違いです。子供には自分を守る術があまりないのです。そういう子供の立場を,社会的に擁護する規範が要ると思います。
人間の精神が豊かであるとき,それは必ずその個性が自然的に解放されているはずだと考えます。母親にとって自然的であるとは,何を置いても母性が豊かであるということではないでしょうか。母性を欠く母親!これほどに矛盾したものは滅多にありません。
「私は母親になどなりたくなかった。しかしなってしまった」という人もあるでしょう。その人はどう生きればよいのでしょう。荷の重い育児に,全精力を奪われるのは耐えられないと思うかもしれません。その気持は分からなくはありません。そして自分のかけがえのない人生を精一杯生きる自由があると考えるのも,理解はできます。その女性は,社会的に成功するかもしれません。そのために家事や育児が疎かになってしまうのはやむを得ないと考えるかもしれません。
彼女たちが人生を自由に,豊かに生きる権利を否定することはできません。しかし,わたしたち精神指導者は,このような母親の下で呻吟する子供たちの例を,いくらでも挙げることができます。もし自分がよりよく生きる自由を追求するためには,やむを得ない犠牲だったという母親があるとすれば,なんといえばいいのでしょう。これが精神の恐るべき貧困の表れでなくして,どういう貧困があるのでしょう。
矛盾を生きる宿命の下にある人間には,まるごとの充実,豊かさはあり得ません。
ソクラテスは,アポロンの託宣により,最も知恵のある者とされました。ソクラテス自身は,自分が人に勝っているとすれば,自分が無知であることを知っていることにおいてであるという意味のことをいっております。
この例にならっていえば,ある母親が精神の豊かさを追求していくつもりがあれば,自分の心の貧困をこそ知る必要があるといえるでしょう。そうでなければ,恐るべきエゴイストと区別がつかないことになってしまいます。
望まない子を生んでしまった母親は,同情に値する面があるかもしれません。育児に煩わされることが,かけがえのない人生をより自分らしく生きる上で障害になると考えていたとすれば,大きな難題を抱え込むことになったといえるでしょう。彼女が考える自由な生き方,自分らしい生き方が,精神の豊穣を意味するものであり,精神の貧困を排除したいという意味であるのなら,不幸にして母親になってしまった現実を真剣に悩む必要があります。あっさりと’不幸の素’を切り捨てるやり方は,忌むべき自己本位,恥を知らない傲慢といわれても仕方がないことです。せめて自分がしていることは,そういう意味を持つのだという自覚を持つべきです。そうであれば,’不幸の素’を切り離すなどという結論には,滅多にいたらないでしょう。人は悩むべきことをしっかりと悩むべきです。真剣に悩むことができれば,やがて大きな解答が出てくるものだろうと思います。そして,そのとき,まったく別の人物になっていることでしょう。
彼女が自分の心の貧困に思いをはせる勇気を持つのなら,’望まなかった出産’に,自己の再生の重要な契機を見出すことでしょうし,そのときこそ精神の豊穣に一歩近づくのではないでしょうか。
現代の母親たちの母性の希薄化は,人間が心の自然から遠ざからざるを得ない時代的な潮流にも関係があると思います。人々の心はより世知辛くなり,小賢しくなり,心の飢えに人知れず悩まされているのが現代精神の潮流です。それに伴って現代人の精神の成熟が阻まれているようであり,それが母親たちにおいては,母性の未成熟化となって表われているということだと思われます。
また,人が依存の対象を絶対的に必要とし,それは必ず悪しきものを排除できないことを含むという問題の根本には,自我に拠る人間の存在条件があります。つまり,人間存在の一つの特徴は,諸矛盾をはらむということです。生きるということには,死ぬことが含まれ,自己であるためには,他者性を含み,良い依存を目指すべきであるということは,悪い依存を含むからこそである等々です。絶対的な良い依存というものは存在しないのです。諸矛盾の果てしない止揚(二つの矛盾,対立する概念を,一段高い段階に統一,発展させること)が,人間精神に許されている自己実現への王道です。人は矛盾を引き受け,矛盾に悩み,そして新たな高みへと進むことができるのです。
このように依存は相互的なものであり,母親と赤ん坊との関係も例外ではありません。かつ依存には,良い形態と悪い形態とがあります。いずれにせよ,どんなに母性に恵まれた母親であっても,悪しき依存の混在は避けられないことです。
母子のあいだでの依存関係では,力を持つ母親の側からの侵入,干渉が特に避け難く,悪しきものの典型です。それに伴って赤ん坊は,自然的な心性をさまざまに混乱させられます。それは悪しき影響ということになりますので,善悪の問題ではありますが,どうしても避けることができないのが人間の宿命的現実です。
Satchi Kamei
人はそれぞれの人生をどこへ向かって進めて行こうとしているのでしょうか。動物は目先のことに,欲求に従って行動しているように見えます。人間は動物の中でも特別な存在のようで,目先のことに欲求にだけ従って生きていけばよいというわけには,到底いきません。できれば自分らしく,充実した日々を送りたいと誰もが思うでしょう。人間の場合,生きる指針は,本能として身体に刻印されたものとしてあるようには思われません。では指針はどこに,どういう形であるのでしょう?
子供には躾けや教育が必要です。大人になって自分一人の力で生きていけるように,大人たちが人生の先輩として,必要と考える知識や,人との関わりの大切さを身をもって教えます。それらは欠かすことのできない重要なことですが,彼ら大人たちの誰もが,人生そのものの指針を伝授することはできません。
では,自立の理念とは何でしょうか?
依存からの完全な脱却であるというのは,どうでしょうか。同語反復のきらいがありますが,間違いではなさそうです。言葉を換えれば,自立とは,自己がそれ自体で自足することであり,あらゆる関係性から自由になるということであるといえるようです。
それでは依存とは何でしょうか。
それぞれの自己は,何ものかとの関係において存在しています。何ものかとの関係においてしか存在し得ないという方が,より適切です。
私がこの一文を書いているということに即して具体的にいえば,持っているペン,紙,向かっている机,椅子,暖房機,電気スタンド,書斎,家,家族,近隣の住人,家々,街,道路,などなど無数の物や人が,つぎつぎに私の意識的視界に入ってきます。それらのすべてが私との関係において存在し,私の世界を構成しています。それらは私の所有に属しているともいえます。それらのものは,私との関係において主観的,かつ客観的という性格を持っています。従って,たとえばAさんの世界に属するそれらのものと,わたしのものは,主観的というかぎりでまったく別個のものですし,客観的というかぎりで同一のものです。我々は互いになにものかを共有することができますし,しかし,なおかつ共有することができません。
私がいま使っているペンは,しかじかという会社の製品で,しかじかという名前の物であり,どこの文具店でも手に入るありふれた物です。Aさんもおなじ物を持っているとします。Aさんのも私のもおなじ物といえますが,しかし,まったく別の物ともいえます。つまり,私が持っているそのペンは,「私のペン」であり,「Aさんのペン」とはまったく異なります。仮にその関係性を無視して,私がAさんのペンを勝手に使えば,私は泥棒ということになります。このように,私はそのペンとの関係性の中にあり,私がそのペンに依存することにより,それは私に固有のものとなるのです。
私がそのペンを使ってみて,書き心地がいいから試してみてとAさんに勧めたとします。Aさんがそれに応じて試し書きをしたとすると,そのペンは共有されたことになります。Aさんも同感しておなじ物を買ったとすれば,ますます共有性を深めたことになります。あるとき何かのきっかけにAさんが私に対して著しく気分を害することがあれば,そのペンを捨てるかもしれません。Aさんがペンを買ったときと捨てたときとでは,おなじペンが対立する意味を持つものとなります。
このように見ていくと,私はおびただしい物や人との依存関係の上に生きているのが分かります。私はそれらによって人生を支えられており,それらが必要であるかぎり,どれ一つとして欠けてはならないものです。
また,不要の物はゴミとして捨てることになりますが,不要でありながら私が捨て切れないでいるものたちもあります。それらの物との関係においても,私の性格的特性が表われているのです。
隣の芝生がきれいに見えるという諺があります。
人をうらやむ心は誰にでもあるものでしょうが,度が過ぎると心を制御するのに苦しむことになります。自分が所有するものは,それを大切にする心がなければ,依存している当の物や人によって,ある意味で逆襲されることになります。
隣の芝生がきれいに見える精神は,満たされていない精神です。
私が貧乏であり,隣の家が裕福であるとしても,私の心が満たされていれば,羨ましく感じることはあって妬むことはないでしょう。しかし心が満たされていなければ妬むかもしれません。
私の心がある程度満たされているとすれば,私に本来与えられている自然的な精神の諸力が,過不足なく実践できている場合です。そのとき,それなりに他人の評価がもらえていることも,必要条件になるでしょう。
逆に心が満たされない思いをしているときは,本来自分が持っているはずの潜在的能力が実践されていないときです。
つまりは心が自然的であればおおよそ問題はないのです。そして人の心が自然的に成長するのが難しいのは,人間が他者との関係を必須のものとしているからです。
結論的にいえば,本来持っているはずの潜在的諸力を実践できないのは,自我の不始末ということになります。結論だけをいえば自業自得ということになるのですが,自我自身がその自然的な機能を他者によって歪められるので,ことは単純ではありません。自我の未発達は,悪しき依存関係の一側面です。それは何よりも,原初の他者であり,人格形成の根幹に関わる立場にある母親との関係において生じます。
心を病んでいるということは,自我の機能的能力が衰退しつつあるということです。人は自我に拠る存在です。自我は光の世界のものです。人は自我を持つことによって人となったのですが,自我によって光を知ることになったのです。そして光を知ったがために闇をも知ることになったのです。光は生きようとする世界のものであり,闇はその裏面の世界です。そして闇は,死に通じるものです。光は闇を前提とし,生きるということは死を前提とするのです。光と闇,生と死は,人間が自我を持つ存在であることで必然化された,人間ならではの遠大な矛盾です。
赤ん坊のか細い自我は,それを護るものがなければなりません。光を知る者として生を受けた赤ん坊は,必然的に闇に怯えるものでもあります。自我の機能を駆使して自らを生きる力を獲得できるまでは,他者の保護を絶対のものとする理由があります。
自我に拠る存在ということが,必然的に闇の世界の存在を前提としているというところに,人が依存的な存在であることの一義的な意味があります。
絶対的な保護を必要とする赤ん坊の未熟な自我が,しだいに力をつけて闇の世界のエネルギーを活用していくことになりますが,それに伴って絶対的な依存から自立の方向に向かうものの,闇の世界を凌駕することが結局は不可能なのも自我の一面です。従って,自立は単なる理念にとどまるのです。
そのようなわけで,人は人生の最早期に他者への依存を不可欠なものとし,結局,他者との依存関係を脱することはできません。
自我は強力な能力を与えられていますが,闇の力の前には何ほどのものでもありません。闇には意識を無化する力があります。それは場合によっては自我を滅ぼすことになるものです。ですから自我を共有する他者との関係は,なにを置いても重要な意味があります。しかし,それだけに他者は諸刃の剣です。自分を元気づけてくれる最たるものであるということは,逆に当てが外れるとひどい目に合うことにならざるを得ません。
小児のころ緘黙症(かんもくしょう、家では普通にしゃべれるが、学校などの特定の場面では全ったくしゃべれなくなる現象)であったある女性は,テレビなどのニュースで人が死んでもなんとも感じないが,犬や猫が死んだらとても悲しいといっています。頼りとする人間たちに,いかに傷つけられてきたかが察せられます。
犬や猫は自然のものです。犬にかまれても,犬を憎んだり,恨んだりする人は滅多にないでしょう。ふつうは飼い主に抗議するだろうと思います。犬は人の身体を傷つける力を持っていますが,心を傷つけることはありません。心を傷つけるのは人間ばかりです。心の傷は外部からの力によるのではなく,受け止める側の内部的な問題として生じるのです。このことは他者が,外なる存在者の中で,特別な意味を持っていることを示しています。つまり自己という存在は,構造として他者を内に含んでいるのです。それがいかなる外部的な状況に置いても,他者との関係が途絶えることがない理由です。犬は経験的に,学習としてそれぞれの個人の世界に外部から入ってきたものですが,他者は,経験以前のものとして存在しているのです。人と人とのあいだでは,言葉を交わさなくても相通じるものがありますが,犬の気持を察するには,人間的な類推をするしかありません。
それにしても他人に心の傷を負わせる人は,人の心の自然の性としてそうした行為におよぶのではありません。その人自身がかつて他人たちから傷を負わされ,いわば心の自然を撹乱されたために,怒り,憎しみが無意識のレベルに解消されずに残っているからです。
他者は,自我を共有するものとして最も頼りとするべきものであるだけに,最も傷つけられるものでもあります。人間の最大の敵である可能性を,人間は持っているといっても過言ではありません。それは人間の存在構造から,原理的にいえることなのです。
自己の存在条件として,他者の助けを絶対的に必要としているのが人間であるということは,親といえども赤ん坊を十分に守り育てる力を持っている保証がないということでもあります。つまり親にしても他に助けを求めたい心があっても,おかしくないどころではないのです。その相手が年端もゆかない赤ん坊であっても不思議はありません。むしろ心にわだかまりを抱える母親には,恰好の相手になります。動物に似て自然のものである赤ん坊は,どんな母親にとっても愛らしいかぎりではないでしょうか。滅多には味わえないであろう愛らしいものとのあいだでの至福の感情は,程度の差こそあれ,あらゆる母親がいつまでも封印しておきたいほどのものではないでしょうか。母親によっては,あの手この手と意識的,無意識的な策を弄し,自分の思うように育てようとするかもしれません。自分の望ましいイメージに沿って育児に励むとき,それが愛情と信じやすい心的状況ができるだろうと思います。ときによっては,投網にかける漁師のように我が子をからめとろうとする母親も,珍しくはありません。いずれにせよ,最良の母親も含めて,母親が赤ん坊に悪しき依存をしてしまう側面があるのは,避けられないことです。
そのような事情が,赤ん坊の自我を混乱させ,自然的な機能を守り通すのが困難になる主要な理由です。母親が第一番の頼りであるということは,母親によって人生を狂わされる最大の理由になり得るということでもあります。
ある中年女性は,離婚の経験者です。小学生の長女と暮らしています。年の暮れに,再婚している元夫から連絡があり,正月に長女を預かるといわれました。相談ではなく,要求であったのも神経を逆なでされることでしたが,長女が喜んで父親のもとへ去ったあとの寂しさは,言葉ではつくせないほどのものでした。そして元気で帰ってきた娘に,「おかあさん,淋ししかった?」と訊かれて,大丈夫だったから安心してね,とはいえませんでした。幼い娘に,母親自身が幼い子のように寄り添って,いつまでも離れたくないと思っていました。娘は母親を気遣って,あれこれと世話を焼いてくれるのです。親子の関係はまったく逆転していたそうです。
繰り返しになりますが,人間は依存的な存在であり,その依存の原初の関係は,母親とのあいだで体験されると考えて間違いないと思います。原初の他者である母親への絶対依存からしだいに自立していくことになりますが,それにはまずは母親の助けが必要です。そのためには母親が,それなりに自立していなければなりません。しかしながら先にも述べたように,母親の自立性には個々に問題があるのです。赤ん坊が頼りとするに値するかは疑問であるほど母性を欠く母親が少なくないのが,現在の臨床現場からうかがえる現実です。子供の虐待報道さえ日常的というのが,昨今の状況です。まして子育てに悩み,自信を失くしている母親は無数にあると考えなければなりません。そこには時代の反映という側面もあると思います。
価値観が多様化している現代ですが,どうやら母親たちにとって,母性も多様化しているかのようです。
それは心の豊かさの表れでしょうか?価値観の多様化が,それぞれの自由の発露に基づいているのであれば,そこには精神の豊かさがあって然るべきです。そして,豊かさのしわよせとして,母性が希薄になるという事態はあり得ることでしょうか?私には,とてもそういうふうには考えられません。母親が個々の価値観に基づいて行動するのは個人の自由でしょうが,それが母性の希薄さを弁明することになるとは到底考えられません。そういうことは個人の問題だと思う人もあるかもしれません。しかし,それは間違いです。子供には自分を守る術があまりないのです。そういう子供の立場を,社会的に擁護する規範が要ると思います。
人間の精神が豊かであるとき,それは必ずその個性が自然的に解放されているはずだと考えます。母親にとって自然的であるとは,何を置いても母性が豊かであるということではないでしょうか。母性を欠く母親!これほどに矛盾したものは滅多にありません。
「私は母親になどなりたくなかった。しかしなってしまった」という人もあるでしょう。その人はどう生きればよいのでしょう。荷の重い育児に,全精力を奪われるのは耐えられないと思うかもしれません。その気持は分からなくはありません。そして自分のかけがえのない人生を精一杯生きる自由があると考えるのも,理解はできます。その女性は,社会的に成功するかもしれません。そのために家事や育児が疎かになってしまうのはやむを得ないと考えるかもしれません。
彼女たちが人生を自由に,豊かに生きる権利を否定することはできません。しかし,わたしたち精神指導者は,このような母親の下で呻吟する子供たちの例を,いくらでも挙げることができます。もし自分がよりよく生きる自由を追求するためには,やむを得ない犠牲だったという母親があるとすれば,なんといえばいいのでしょう。これが精神の恐るべき貧困の表れでなくして,どういう貧困があるのでしょう。
矛盾を生きる宿命の下にある人間には,まるごとの充実,豊かさはあり得ません。
ソクラテスは,アポロンの託宣により,最も知恵のある者とされました。ソクラテス自身は,自分が人に勝っているとすれば,自分が無知であることを知っていることにおいてであるという意味のことをいっております。
この例にならっていえば,ある母親が精神の豊かさを追求していくつもりがあれば,自分の心の貧困をこそ知る必要があるといえるでしょう。そうでなければ,恐るべきエゴイストと区別がつかないことになってしまいます。
望まない子を生んでしまった母親は,同情に値する面があるかもしれません。育児に煩わされることが,かけがえのない人生をより自分らしく生きる上で障害になると考えていたとすれば,大きな難題を抱え込むことになったといえるでしょう。彼女が考える自由な生き方,自分らしい生き方が,精神の豊穣を意味するものであり,精神の貧困を排除したいという意味であるのなら,不幸にして母親になってしまった現実を真剣に悩む必要があります。あっさりと’不幸の素’を切り捨てるやり方は,忌むべき自己本位,恥を知らない傲慢といわれても仕方がないことです。せめて自分がしていることは,そういう意味を持つのだという自覚を持つべきです。そうであれば,’不幸の素’を切り離すなどという結論には,滅多にいたらないでしょう。人は悩むべきことをしっかりと悩むべきです。真剣に悩むことができれば,やがて大きな解答が出てくるものだろうと思います。そして,そのとき,まったく別の人物になっていることでしょう。
彼女が自分の心の貧困に思いをはせる勇気を持つのなら,’望まなかった出産’に,自己の再生の重要な契機を見出すことでしょうし,そのときこそ精神の豊穣に一歩近づくのではないでしょうか。
現代の母親たちの母性の希薄化は,人間が心の自然から遠ざからざるを得ない時代的な潮流にも関係があると思います。人々の心はより世知辛くなり,小賢しくなり,心の飢えに人知れず悩まされているのが現代精神の潮流です。それに伴って現代人の精神の成熟が阻まれているようであり,それが母親たちにおいては,母性の未成熟化となって表われているということだと思われます。
また,人が依存の対象を絶対的に必要とし,それは必ず悪しきものを排除できないことを含むという問題の根本には,自我に拠る人間の存在条件があります。つまり,人間存在の一つの特徴は,諸矛盾をはらむということです。生きるということには,死ぬことが含まれ,自己であるためには,他者性を含み,良い依存を目指すべきであるということは,悪い依存を含むからこそである等々です。絶対的な良い依存というものは存在しないのです。諸矛盾の果てしない止揚(二つの矛盾,対立する概念を,一段高い段階に統一,発展させること)が,人間精神に許されている自己実現への王道です。人は矛盾を引き受け,矛盾に悩み,そして新たな高みへと進むことができるのです。
このように依存は相互的なものであり,母親と赤ん坊との関係も例外ではありません。かつ依存には,良い形態と悪い形態とがあります。いずれにせよ,どんなに母性に恵まれた母親であっても,悪しき依存の混在は避けられないことです。
母子のあいだでの依存関係では,力を持つ母親の側からの侵入,干渉が特に避け難く,悪しきものの典型です。それに伴って赤ん坊は,自然的な心性をさまざまに混乱させられます。それは悪しき影響ということになりますので,善悪の問題ではありますが,どうしても避けることができないのが人間の宿命的現実です。
Satchi Kamei